増田家の土地が紀州徳川家を経て、徳川家達や天璋院篤姫らの住まいである千駄ヶ谷徳川屋敷になって行く経緯には、旗本で御庭番から出世した川村修富の跡継ぎで、新潟町奉行、長崎奉行等の遠国奉行を歴任した川村修就やその実子川村清兵衛の周旋があったためと考えている。
川村清兵衛は千駄ヶ谷徳川屋敷にも勤め、その子、川村清雄は、徳川宗家16代当主徳川家達の小姓であり、明治後、徳川宗家の給費生として米、仏、イタリアに渡り洋画家となり、天璋院篤姫や皇女和宮、勝海舟等の肖像画を残した。
さて、川村修富や川村修就と増田繁亭金太郎及びその子孫(代々金太郎を名乗った。)の関係であるが、植木屋として大名屋敷や諸家に出入りし、大名やその継嗣(例えば、富山藩主になる前の前田利保)と直接言葉を交わしていた繁亭金太郎らは、御庭番当時の川村らにとっても貴重な情報源であったのであろう。
この場合、御庭番とは徳川家将軍家の正式な職制であるが、増田家には紀州徳川家の御庭番であったとの伝承があることから見て、実際の情報源として植木屋の耳は役にたったと言える。
(この項2008.3.26補訂、2008.2.17補訂、2008.2.3作成)
カノン砲の調達と増田金太郎
幕末に遡るが、嘉永6年(1953年)のペリー来航前から欧州、ロシアの軍船が日本に近づき国交を求めるようになると、西欧や清朝の事情に詳しい蘭学者や憂国者は、海防の必要性を説くようになった。
この頃、紀州徳川家の金庫番として行動していた増田金太郎(増田繁亭金太郎又は3代目増田金六)は、来るべき外憂内患に備え、川口(埼玉県川口市)や桑名(三重県桑名市)の鋳物師(鋳物屋)にカノン砲300門の発注を周旋したと増田家には伝えられている。
この企ては、御庭番を束ねる川村壱岐守の承認のもとで動いていたものと考えられるが、後の木村摂津守、大久保忠寛(一翁)や勝海舟にも相談され、西国から上陸した他国軍や外様藩が江戸を目指した場合、幕府海軍が駿河国薩埵峠で艦砲射撃により東海道を押さえ、中仙道や脇街道を陸戦用(野戦用)のカノン砲で封鎖するという計画であった。
実際には、後年、鳥羽伏見戦いに敗れた徳川慶喜が大坂から帰江して恭順の態度をとったので、国内を分裂し、仏英の介入を招きかねなかった事態は避けられたのである。 (この項2008.2.17補訂、2008.2.3作成 以下、つづく)
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