「草木奇品家雅見」とその著者増田金太(増田繁亭金太郎)somoku kihin kagami /masuda kinta (masuda hantei) 

文政10年(西暦1827年)江戸青山権田原の種樹家(植木屋)金太は「草木奇品家雅見」を著しました。これから、増田家7代目(金太から6代目)の私が金太の足跡とその周辺を探索します。 Copyright (C) 2007-2010 増田信敬 (masuda nobutaka)All rights reserved
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千駄ヶ谷徳川屋敷(徳川邸)と増田家
 (この章の更新日2008.3.26)
 
権田原から千駄ヶ谷へ
 
 増田繁亭金太郎は、青山権田原種樹家(植木屋)金太と称されることが多いし、現に「草木奇品家雅見」でも自らそのように称している。最も、松浦静山の「甲子夜話」では天保3年に「権田原 金太郎」と小万年(おもと)聚会に出ていることが紹介されており(「甲子夜話」続編九十一)、このころには、苗字帯刀を許されて「金太郎」と名乗っていたと考えられる。因みに、この頃の長刀は東京大空襲まで現存していた。
 
 一方、「十九世紀日本の園芸文化 江戸と東京、植木屋の周辺」(2006年平野恵、思文閣出版)で、平野恵氏は、青山権田原を括弧書きで「現、新宿区南元町」としている。菩提寺が南元町であるから間違いではないが、青山権田原と南元町では、台地の上と谷戸の下の地形の差のほかに、居住する人々にも身分上の差異がある。
 
 なお、当の増田家では屋敷は、現在の東京体育館(江戸期においても千駄ヶ谷に属する。)の位置と伝えられているが、これが天保改革の前の話か、後の話かは判らない。
 古地図を見ると現在の権田原交差点の東宮御所側に飛び地のように紀州徳川家の下屋敷が描かれているので、天保改革前はここが屋敷であったかも知れぬ。
 
 増田家の土地は、現在の青山の神宮外苑(絵画館)から、千駄ヶ谷八幡(鳩森神社)を通って玉川上水の葵橋まで続いていたと伝えられている。
 古地図で見ると、大半は、紀州徳川家の下屋敷と畑、あるいは千駄ヶ谷村の入会地と記されている。
 
 増田繁亭金太郎が、天保改革で「闕所の罪(けっしょのつみ)」により江戸四谷の大木戸門外に追放の憂き目に遭った際も、実際には、紀州徳川家により有耶無耶となり、千駄ヶ谷八幡(鳩森神社)付近に居住していたと考えられる。
(2007.8.22)
 
                      千駄ヶ谷・鮫ヶ橋・四ツ谷絵図.pdf
 
 
増田の土地は千駄ヶ谷徳川屋敷に 
 
 増田家が紀氏の末裔だったからか、増田繁亭金太郎が紀州徳川家と懇意だったからか、増田家の土地は事あるごとに紀州徳川家のものになった。江戸期晩年、増田家は紀州徳川家の金庫番だったと伝えられており、紀州徳川家の財政に寄与したものであると伝えられている。
 
 大政奉還後、徳川宗家は徳川慶喜から、紀州徳川家出身の8代徳川吉宗公ゆかりの御三家田安家の当主徳川家達が16代徳川宗家当主となった。
 
 明治に入り、 現在の東京体育館の地に、徳川屋敷が建てられ、徳川宗家16代当主徳川家達のほか、天璋院篤姫ら多くの徳川家の人々の屋敷が、現在の東京体育館付近から千駄ヶ谷八幡(鳩森神社)を通って玉川上水の葵橋付近まで建ち並んだ。
 その土地の広さ、「全体で十万坪を超えていた。」(「花葵 徳川邸おもいで話」1997年保科順子著毎日新聞社刊P13)とされる。
(2007.8.22)
 
 
川村修富、川村修就と増田繁亭金太郎
 
 増田家の土地が紀州徳川家を経て、徳川家達や天璋院篤姫らの住まいである千駄ヶ谷徳川屋敷になって行く経緯には、旗本で御庭番から出世した川村修富の跡継ぎで、新潟町奉行、長崎奉行等の遠国奉行を歴任した川村修就やその実子川村清兵衛の周旋があったためと考えている。
 川村清兵衛は千駄ヶ谷徳川屋敷にも勤め、その子、川村清雄は、徳川宗家16代当主徳川家達の小姓であり、明治後、徳川宗家の給費生として米、仏、イタリアに渡り洋画家となり、天璋院篤姫や皇女和宮、勝海舟等の肖像画を残した。
 
 さて、川村修富や川村修就と増田繁亭金太郎及びその子孫(代々金太郎を名乗った。)の関係であるが、植木屋として大名屋敷や諸家に出入りし、大名やその継嗣(例えば、富山藩主になる前の前田利保)と直接言葉を交わしていた繁亭金太郎らは、御庭番当時の川村らにとっても貴重な情報源であったのであろう。
 この場合、御庭番とは徳川家将軍家の正式な職制であるが、増田家には紀州徳川家の御庭番であったとの伝承があることから見て、実際の情報源として植木屋の耳は役にたったと言える。
(この項2008.3.26補訂、2008.2.17補訂、2008.2.3作成)
 
 
カノン砲の調達と増田金太郎
 
 幕末に遡るが、嘉永6年(1953年)のペリー来航前から欧州、ロシアの軍船が日本に近づき国交を求めるようになると、西欧や清朝の事情に詳しい蘭学者や憂国者は、海防の必要性を説くようになった。
 
 この頃、紀州徳川家の金庫番として行動していた増田金太郎(増田繁亭金太郎又は3代目増田金六)は、来るべき外憂内患に備え、川口(埼玉県川口市)や桑名(三重県桑名市)の鋳物師(鋳物屋)にカノン砲300門の発注を周旋したと増田家には伝えられている。
 この企ては、御庭番を束ねる川村壱岐守の承認のもとで動いていたものと考えられるが、後の木村摂津守、大久保忠寛(一翁)や勝海舟にも相談され、西国から上陸した他国軍や外様藩が江戸を目指した場合、幕府海軍が駿河国薩埵峠で艦砲射撃により東海道を押さえ、中仙道や脇街道を陸戦用(野戦用)のカノン砲で封鎖するという計画であった。
 
 実際には、後年、鳥羽伏見戦いに敗れた徳川慶喜が大坂から帰江して恭順の態度をとったので、国内を分裂し、仏英の介入を招きかねなかった事態は避けられたのである。  
(この項2008.2.17補訂、2008.2.3作成 以下、つづく)
 
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