「草木奇品家雅見」とその著者増田金太(増田繁亭金太郎)somoku kihin kagami /masuda kinta (masuda hantei) 

文政10年(西暦1827年)江戸青山権田原の種樹家(植木屋)金太は「草木奇品家雅見」を著しました。これから、増田家7代目(金太から6代目)の私が金太の足跡とその周辺を探索します。 Copyright (C) 2007-2010 増田信敬 (masuda nobutaka)All rights reserved
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鉄と増田家
(この章の更新日2007.10.15)
 
 木地師という業
 
 私の祖先増田家は、江戸時代武蔵国久米に在所していたころは、木地師で屋号を「棒屋」と称していたという(2001.9.7筆者の兄の所沢市久米長久寺における聞き取り)。
 
 木地師というと椀などの木工製品の職人のように思われるが、ここでは製鉄職人を考えて見たい。
 と言うのも、職業が未分化だった頃、木地師は道具を自ら作り、鍛冶屋でもあったと考えられるからである。
 
 望月氏が御牧の牧監として望月で佐久地方を治めていたころ、蹄鉄や馬具を造る為、製鉄職人を必要とした筈である。
 
 望月の後背地には蓼科の山塊があり、少量ながら鉄を産していた。
 
 また、増田家は北信濃の戸隠山と係わりがあると伝えられており(筆者の父6代目からの伝聞)、戸隠でも鉄を産していたことは容易に知れるところである。ちなみに戸隠は木地(木工製品)の里として、今日でも知られる。
(この項、2007.9.14補訂、2007.8.16補訂、2007.8.9作成)
 
  
 
 久米と製鉄
 
   久米とは、 増田家の菩提寺のある武蔵国埼玉県所沢市の地名であるが、久米の起源を考えてみたい。
 
 武蔵国久米は、律令時代、今日の東海道から武蔵国の国府を経由して上野国の国府を繋ぐ官道の要衝であったと考えられる。
 そして、久米を領したのは、大和朝廷の東征に従った久米部と呼ばれる部族ではなかろうか。
 
 一説では、久米部は、九州の熊襲、球磨に名を通じ、あるいは隼人ではなかったかとされる。顔立ちに特徴があり、目の周りに隈を描いたのでこの名が生まれたともされる。
 
 私は、ここで久米部は、製鉄を掌る技術集団ではないかと思料する。
 すなわち、製鉄の技術を有した故に大和朝廷の東征に、馬具と武具そして農具の製造者として参加し得た。久米部は、東征の折りに各地に鉄を産するところを求め、その地に製鉄の技術を残していった。
 それは山深い土地が多かったであろうが、川が山から出るところ、川の流れの淀んだところ、あるいは湿地帯でも鉄は得られたと考えられる。このような土地として武蔵国久米を考えたい。
 
 このような考えに到ったのは、日本の製鉄技術の成り立ちとして出雲国、吉備国を考察したとき、久米の地名がこれらの土地、特に吉備(備前)に多く存在すること、鑪(たたら)製鉄では高温の熱風と鉄の焼成(溶解)の過程で、その炉の管理で目を痛め易く、隻眼になる者が多かったことが認められるからである。
 
 すなわち、久米部の由来は、鑪(たたら)製鉄の技術上の由来から生まれた地名、部族名ではなかろうか。
 例えば、元は製鉄師であったが、鑪(たたら)製鉄に従事する過程で隻眼となり、製鉄師としては成り立たなくなった者が武族となったと考え得る。
 
 
 増田の祖先に立ち返ると、大和朝廷の東征の中で、北信濃の戸隠山で鉄を見出し製鉄を行い、その後、佐久の望月の牧で馬具と農具の生産に従事した者があった。
 一方で、武蔵国久米周辺で製鉄を行っていた者は、官道の成立によって久米の地に定住した。
 
 その後、時を経て、佐久の望月の増田は、武田信玄に従った首領の望月氏とともに甲斐国塩山で駒(牧)を拓いたが、武田家の滅亡時に織田信長、徳川家康の猛攻に会い、武蔵国久米の地の増田に合流したと考えている。
 
 武蔵国久米において祖先は増田家の主流ではなかった。よそ者と言えようか。
 それ故に、江戸後期、既に青山権田原で一財を揚げた植木屋石井弥助に寄り添い、青山権田原近くの南元町に移り、植木屋を家業とし初代を名乗った。後年2代目に養子として石井弥助の末子をむかえ、これが「草木奇品家雅見」の著者、増田繁亭金太郎となる。
(この項、2007.9.14補訂、2007.8.15作成) 
 
 
伊利麻路と増田家
 
 埼玉県狭山市入間川に在住の大野七三氏は、「武蔵国の国道 伊利麻路」(2003.11批評社)を刊行され、武蔵国入間川の地方史から、古代、中世、室町時代を俯瞰し、掘り下げられており、その手法は中央一辺倒であった歴史観を変えるものである。
   
 これまで、私の祖先増田家が、古代氏族の紀氏と製鉄に結びついた論を展開してきたが、東京大空襲ですべてを焼失してしまったため、論証に欠けるものであった。
 
 ここでは、大野七三氏の労作、「武蔵国の国道 伊利麻路」に取り上げられた「柏原の増田家」(同書114ページ以降)から、甲冑師、鍛冶屋を業とした増田家について紹介したい。
 
 埼玉県入間市と狭山市は、所沢市久米から北西に8キロ余りにあり、今日の行政区画では2市に分かれているが、最近まで入間川と称された一地域である。
 周辺には古墳も多く、「稲荷山」の地名もある。また、鉄剣の出土で話題となった埼玉県行田市の稲荷山古墳へは、北へ40キロ余りである。
 
 さて、「柏原の増田家」であるが、同書115ページには「増田明珍家系図」が転載され、それに基づいて大野七三氏は、柏原の増田家を武内宿禰を太祖とし、大和国郡山から武蔵国高麗郡柏原村(現狭山市)に移住した槍鍛冶屋であり、「紀姓明珍家系図」 によって室町時代は甲冑師であったとされている。
 
 本書によって、ようやく、鉄と増田家の繋がりの確証を得ることができた。
 
 なお、狭山なる地名は、日本書記において、天照大神が天の岩戸に隠れた際に、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が、天香山の銅から鏡を鋳造したとされる河内国が現在の大阪狭山市付近と考えられており、鋳造技術に係わりのある地名と思われる。
 製鉄技術上は、鍛造より先に鋳造があったと考えらえ、埼玉県行田市の稲荷山古墳での出土した鉄剣の製造方法が気になるところである。
(この項、2007.9.15補訂、、2007.9.14補訂、2007.8.20作成
 
 
大和国の増田家
 
 大和国における増田家については、「紀氏のルーツ」( 編纂者 日本家系図学会理事松永美智子(紀氏のルーツ研究会) http://homepage2.nifty.com/ihmm/index.html )の大和国の紀氏についての章、「紀氏の荘園・姓(国別)(9)」(http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub10-3.html)に記載があった。
  
 「紀氏のルーツ 紀氏の荘園・姓(国別)(9)」によると、「増田氏(明珍家=甲冑匠)大和岡本に住む」とあり、代々、名の一字に「宗」又は「重」を当てていることが窺える。一方、「武蔵国の国道 伊利麻路」(大野七三著2003.11批評社)に掲載された「増田明珍家系図」同書115ページにおいても、 代々、名の一字に「宗」を当てており、抄録ながら「宗通」の名は一致した。
 
 このことから、「武蔵国の国道 伊利麻路」に取り上げられた「柏原の増田家」は、「増田氏(明珍家=甲冑匠)大和岡本に住む」と伝えられる大和国増田家と同族というよりも分家と考えてよい。
 
 さらに、「紀氏のルーツ 紀氏の荘園・姓(国別)(9)」では、8世紀半ばに、奈良県御所市に紀氏系の「楢原造 紀国造族 葛上郡楢原より起こる」と記され、さらに「滋野朝臣」の名も紹介されていて、信濃国(佐久)望月の滋野、望月、増田の流れを 想起させられる。
(この項、2007.9.14補訂、2007.8.26作成)  
 
 
葛城郡楢原
 
 葛城郡楢原(現奈良県御所市楢原)は、河内国と大和国を分ける葛城山の東にあり、葛城古道沿いで、北側に竹内街道、南側に水越峠を擁している。
 竹内街道は日本書紀で推古天皇時代(西暦600年代)の難波から飛鳥に至る最古の「官道」されており、 水越峠はその街道を補するものであろうか。
 また、楢原は金剛山の入り口にもあたる。
 
 楢原には、滋野貞主(しげのさだぬし)命を祀る駒形大重(こまがたおおしげ)神社、一言主(ひとことぬし)神社、時代は下るが九品寺がある。
 
 日本書記では、神武天皇東征の後、天道根命(あめのみちねのみこと)が紀伊国造に任命され、紀氏が誕生した。その後、葛城にあった武内宿禰の母系が紀伊国造であったことから武内宿禰は子の木角に紀氏を名乗らせた。
 さらに、伊蘇志(勤氏)、楢原氏を経て、其の子が滋野氏を賜ることとなる。
(この項、2007.9.14作成)

奈良県御所市増(真志)
 
 筆者は、まだ雲を掴むような気持ちながら、楢原の南、 水越峠の麓の増(真志)という字に古代増田家があったと考えている。
 
 「葛城の里」(奈良同友会南和支部・有志作成グループshige@Ynets http://www.asukanet.gr.jp/katuragi/)の「御所市」の項(http://www.asukanet.gr.jp/katuragi/gose.html)によれば、増(真志)は、「この地は早くから開けたところで、「和名抄」の大坂郷の地といわれる所で、「日本書紀」天武天皇9年9月9日(筆者注:西暦680年)の条に「馬を長柄杜に看す」とあり、マシは馬司・馬飼の義で、古代牧の存在したことが考えられる。」とある。
 長柄社とは、現在の長柄神社であり、下照姫命(したてるひめのみこと)を祀っている。
 
 つまり、筆者は、古代増田家は、この時代に製鉄を生業として、蹄鉄、馬具を牧に納めていたと考えている。
  その後、滋野氏族の誰かが信濃国の牧に下向する際に、技術者として加わったのではないか。
 
 因みに信濃国では、諏訪湖南西方に真志郡があり(現在は市町村合併で郡名は消えている。)、現在でも、諏訪大社上社本宮のすぐ西北の字は「真志野(まじの)」である。真志野は、現在の愛知県豊川(又は豊橋)から遠州街道(三州街道)を分け入り、伊那地方に入って箕輪から諏訪に出る真志野峠の出口にあたる。  
 
 なお、天武天皇が出てきたところで、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣と額田王(ぬかたのおおきみ)を記して置きたい。
(この項、2007.9.15補訂、2007.9.14作成)
 
 
久米寺と益田(増田)池と益田(増田)の岩船  
 
 奈良県御所市増(まし)から東に目を転ずると、畝傍山の麓に橿原神宮があり、近鉄橿原神宮駅周辺は「久米町」であり、「久米寺」がある。久米寺は、推古天皇の命により、聖徳太子の弟である來目(くめ)皇子が建てたと伝えられている。
 
 大阪湾に注ぐ大和川の支流が飛鳥を南から北へ流れており曽我 川(そががわ) と言う。この川の古称は久米川であり、曽我川と書いて「ましががわ」とも呼ばれていた。
 
 畝傍山の南には、益田池と益田の岩船(磐船)がある。
 このあたりは樫原市西池尻であるが、橿原市西池尻町連合自治会のホームページ(http://nisiikeziri.com/)、「西池尻町の由来」(http://nisiikeziri.com/yurai/index.htm)によれば、益田池に付近について、「鎌倉後期・弘安八(1285)年の古文書(春日神社文書)に「大和国高市郡増田池尻」とあり、時代が下った室町前期・至徳3(1386)年の文書(一乗院文書)にも地名「益田」がみえています。また、大和(奈良)の古跡を紹介した江戸時代の「和州旧跡幽考」には、いまも久米町にある久米寺のそばに「益田池」の跡が残り、池跡の西に「池じり村」のあることが書かれています。古く「増田池」といわれた池が、「益田池」と呼び変えられ、池の西に沿っていた集落も「池尻村」と呼ばれたのでしょう。」とある。
 
 古代は、漢字表記よりも「音」が先んじていたようである。
 
 さらに、橿原は武蔵国柏原に音が通じる。
 また、橿原から南に下ると、檜前(ひのくま)の地名があり、こちらは、紀国の「日前神宮(ひのくまじんぐう)」を想起せざるを得ない。
 
 増田家の祖先を遡るうち、神武、欽明、天武、持統天皇と飛鳥、高松塚古墳近くに迷い込んでしまった。
 (この項、2007.10.15補訂、2007.9.19補訂、2007.9.15補訂、2007.9.14作成 以下、つづく)  
 
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