「草木奇品家雅見」とその著者増田金太(増田繁亭金太郎)somoku kihin kagami /masuda kinta (masuda hantei) 

文政10年(西暦1827年)江戸青山権田原の種樹家(植木屋)金太は「草木奇品家雅見」を著しました。これから、増田家7代目(金太から6代目)の私が金太の足跡とその周辺を探索します。 Copyright (C) 2007-2010 増田信敬 (masuda nobutaka)All rights reserved
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大逆事件の頃、増田謹三郎は牧師であった。
謹三郎は出版業を営み、玉川上水千駄ヶ谷(現在の新宿駅南口代々木2丁目)に葵橋を架けて篤家然と暮らしていたが、生計は傾き、土地を切り売りし、日々の糧は妻と長男の嫁の二代の産婆稼業で賄っていた。
この頃の事情は水上勉の小説にも描かれており、私が父親から聞い内容とも一致する。

通り向かいに千駄ヶ谷平民社となる借家を幸徳秋水に貸し、ほとんど家賃も取らなかったという。
その頃の増田家の母屋と平民社の様子は、絲屋寿男「管野すが」(岩波新書)に詳しい。
母屋には「警察官詰所」があり、平民社には「警察官宿泊所」が隣接している。

これでは秘密も謀議もあったものではないと思う。
ちなみに張り付いていた刑事の古田啓作の息子の古田喜作は謹三郎の長女と結婚しているし、謹三郎の妹は昭憲皇太后の女官に上がっていたし、互いにスパイ、あるいは二重スパイの臭いを漂わせる。
みんな自分の役務、信じるところに真剣だったのだろうけど。

謹三郎は、千駄ヶ谷平民社解散後、母屋に菅野スガを住まわせ、幸徳秋水の家財も引き取っていた。
そして、大逆事件を迎えた。今からちょうど百年前のことであった。

この頃、祖父の増田誠は東京帝大の今の農学部、当時は別科に在籍し、蝶の生態研究に明け暮れていた。
三好学博士や牧野富太郎博士と関係があったかどうかは知れない。
ただ、水野忠邦の天保改革で、鳥居耀蔵に家財没収、版木を焼却の話しが世に喧伝されたのはこの頃ではないかと思う。

あるいは、早世した叔父が現在の千葉大学医学部の前身の旧制千葉医科大学の出身であるから、千葉大学の農学部に繋がりがあって、天保改革で云々の話しとなったとも考えられる。

増田繁亭金太郎は、三度、幕府に家財を没収されたと増田家には伝わるが、いまのところ、幕府禁令は再三、奇樹奇草の高価取引を禁じているのは判明しているが、歌舞伎の成田屋市川団十郎のような江戸所払い(欠所の罪)を裏付けるものは発見できない。

私は、江戸後期、植木屋は火除け地の確保や鉄砲場、膨れ上がる役宅地の確保のため、次第に青山権田原、四谷から郊外に移転させられたと考える。


ところで、祖父の増田誠博士論文を書き上げたが、金が無く、5万円の論文審査費用が出せず、論文はお蔵入りとなった。
戦時となり、繁亭金太の遺品や奇樹奇草は疎開させることが出来ず、戦災で蝶の標本と共に全て消失したが、論文の原稿は祖母が疎開先の山梨の小淵沢(韮崎ともいう。)の寺で守った。

結局この博士論文は陽の目を見ず、昭和31年に祖父が亡くなり、平成元年に祖母が亡くなって所在は不明となった。

神崎清によると、後年、幸徳秋水の羽織袴は、私の祖父増田誠と祖母増田かね(旧姓福島かね)の普段着とモンペに化けていたという。神崎清さんは戦前から昭和20年代の間に増田家に来ていたんですね。

祖父も祖母も財産を守ることには疎かった。
容易に動かせない蝶の標本や植木鉢がそうさせたか、土地はあっても借金が量んだ性か。

参考文献
「革命伝説 大逆事件」神崎 清(子どもの未来社)
「管野すが」 絲屋寿男(岩波新書)
「十九世紀日本の園芸文化」平野 恵 思文閣出版)
「盆栽分化史」 岩佐亮二(八坂書房)
作成2011.9.5
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