「草木奇品家雅見」とその著者増田金太(増田繁亭金太郎)somoku kihin kagami /masuda kinta (masuda hantei) 

文政10年(西暦1827年)江戸青山権田原の種樹家(植木屋)金太は「草木奇品家雅見」を著しました。これから、増田家7代目(金太から6代目)の私が金太の足跡とその周辺を探索します。 Copyright (C) 2007-2010 増田信敬 (masuda nobutaka)All rights reserved
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新宿歴史博物館の草木奇品家雅見         
 
新宿区三栄町にある新宿歴史博物館の常設展示室隣のホール壁面に、繁亭金太の「草木奇品家雅見」の一部がエッチングで大きく複製展示されている。
 
三栄町のお隣りは荒木町で、増田の家は明治維新の前後に千駄ヶ谷の紀州藩下屋敷(現在の東京体育館)からこの荒木町に移っている。
荒木町は、幕臣の居住地と町屋が混在していたところで、甲州街道に面した四谷伝馬町とともに江戸後期には大名屋敷に出入りする植木屋の多い土地であった。
 
転居した荒木町3番地は、維新前は美濃高須藩松平摂津守の上屋敷前で、維新後、摂津守の屋敷は庭園として開放され、東京市民で賑わった。
転居先は、この庭園の正門前であるから、増田の家も植木屋か茶屋を兼業していたようにも考えられるが、伝わっていない。
なお、会津藩主松平容保と京都所司代桑名藩主松平定敬は、この尾張徳川家の支藩である美濃高須藩から養子に入っているので、この上屋敷で育っている。
 
 
千駄ヶ谷や四谷の植木屋の多くは明治維新後の大名屋敷の消滅により姿を消したが、その後、出版業を営む者が勃興した。
曾祖父の増田謹三郎は、明治初年に四谷伝馬町(正しくは、忍町)に「増田代用小学校(代用増田小学校)」を開設したが、そんな環境も影響したのであろう。
「増田代用小学校」は、明治40年代の代用小学校廃止まで存続した。
当時は、現在の公立小学校が制度的に行き渡らず、私塾や寺子屋の延長線にある私学校が玉石混淆した時代である。
 
この時代、東京府知事であった元幕臣の大久保一翁は、月謝が高く、設立資金に無理やり庶民に寄付を求めた公立小学校設立の文部省令を棚上げし、東京市内の代用小学校の設立と育成を擁護した。
この施策により、裕福な者は公立小学校へ、代用小学校では貧富の差なく必要にして十分な教育が受けられたという。
 
この徳川幕府の最後の幕臣大久保一翁は、微禄であった勝海舟の幕臣への登用を図ったことで知られているが、増田家には「御庭番としてこれを周旋した。」との伝承がある。
もちろん増田金太郎は、百姓、町人であるから幕府の職制としての「御庭番」ではないが、植木屋として、奇樹奇草を扱う文化人として大名諸家、幕臣等と身分を越えた交わりがあったので、豊富な蓄財とともに自由に動けたということであろう。
 
話しは三栄町に戻る。 
祖父の増田誠は、大正15年に同人誌の「恒星」に詩を寄せている。
出版社は、恒星社であった。同社は、恒星社厚生閣となって三栄町で盛業中である。
(更新2010.1.2、作成2009.12.6)
 
参考文献    「地図で見る新宿区の移り変わり-四谷編-」 東京都新宿区教育委員会(中央図書館郷土資料室) 昭和58年 人文社
         「勝海舟を動かした男 大久保一翁」 古川愛哲著 平成20年 (株)グラフ社 
          

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