近江の製鉄遺跡と増田家
(この節の更新日2007.10.15)
日本における製鉄の起源
日本における製鉄の始まりについては、弥生時代とする説や古墳時代とする説があり、未だ定説を見ないようである。
北部九州では朝鮮半島との交流により弥生時代には製鉄が始まっていたと考え得るが、遺跡としては確証のあるものはないようである。
これは、この頃の遺跡では、製鉄された鉄から武器、農具などの鉄器を製造した鍛治遺跡と、砂鉄や鉄鉱石を原料に鉄を精錬した製鉄遺跡のはっきりした見極めが困難なことにある。よって、朝鮮半島から製鉄された半製品を交易で輸入していたと考えられている。
7世紀の製鉄
663年、白村江の戦いで半島における交易の拠点を失うと、大和政権の鉄事情は半製品の鉄素材が供給不足となり困難を極めたであろう。
一方、百済からの優秀な官僚、技術者、工人が国内に流入し、律令機構と伴に、製鉄技術の伝導と革新がもたらされた。
鉄素材の供給不足は、必然的に国内での製鉄を必要とし、また、その製鉄原料確保のための国内統治体制、輸送体系の整備が急速に図られた。
滋賀県野路小野山遺跡
村上恭道氏は、その著書「古代国家成立過程と鉄器生産」(2007.3青木書店)の中で、「7世紀中葉あるいは後半以降、(中略)琵琶湖沿岸地域の近江が鉄の大生産地と」(同書p262)なったとしている。また、「(製鉄炉である)箱型炉は近江から東日本各地へ7世紀後半以降へ伝えられた。近江は生産基地であると同時に、技術開発、実習基地であったとみられる。」(同書p271)としている。
この野路小野山遺跡(瀬田丘陵生産遺跡群)は、滋賀県草津市野路町字小野山にあり、1979年以降発掘が進み、すでに製鉄炉跡が14基確認されている。中心は8世紀中頃の製鉄炉跡であるが、それ以前からの製鉄の開始が、その頃最も発達していたものと考えられる。
近江における増田家
さて、近江における増田家であるが、野路小野山遺跡(草津市野路町)から東に約30キロの地に、信濃国佐久との関連を想起させる「布引山」があり、その麓を「佐久良川」が流れ、鋳物師の名が残るところに「増田」の字名がある。
佐久良川沿いには「善光寺」もあり、信濃国佐久から増田家が製鉄、鍛治技術の修得に来たのか、ここで技術を得た増田家が律令体制の中で、信濃に下ったことが考えられる。
(この項、2007.10.15作成 以下、つづく)
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