御庭番と増田繁亭金太郎 文政期の太平の世から幕末の江戸
(この章の更新日2008.3.24)
御庭番とは
御庭番とは徳川幕府の職制で、8代将軍徳川吉宗に従い紀州藩から幕臣に組み込まれた当初17家(後に22家)が代々勤めた将軍直属の機関である。
諜報機関であったが、次第に目付けの働きもしたし、将軍世子や大奥の警護を担当したり、勘定方や幕府直轄領の奉行等の重臣に抜擢される者もあった。
御庭番川村修富と川村修就
御庭番川村條理の弟であった川村修富(ながとみ)は別家を立て、後に本家を凌ぐ出世して文政12年には御簾中様(後の12代徳川家慶夫人)御用人となった。
その実子川村修就(ながたか)は、天保の改革の水野忠邦に見出されて新たに幕府直轄領となった初代新潟奉行や堺奉行を歴任し、13代将軍徳川家定から長崎奉行を拝命したときは長崎軍艦操練伝習所開設にあたった。
幕末、14代将軍徳川家茂の上洛の際は大坂町奉行として迎えている。
慶応3年(1867年)家督を実子清兵衛に譲ったが、この川村清兵衛の実子が、天璋院篤姫や皇女和宮、勝海舟らの肖像画を描いた洋画家川村清雄である。川村清雄は、16代徳川家達の小姓であった。
川村修富と繁亭金太郎
増田家には、繁亭金太郎は御庭番だったとの伝承が残るが、繁亭金太郎が植木屋として各藩の江戸屋敷や諸家に出入りしていたのは川村修富の時代であり、この御庭番とは川村修富付きの間諜と考えてよい。
「草木奇品家雅見」の克明な人物評、草木奇品の描写はこの役柄から培われたものであり、諸大名やその世子に近づいていったのも、間諜としての目的があったのである。
増田家は、戦国時代武田信玄の武将望月氏の配下にあり、槍の名手であった。
武田家瓦解の折、武蔵国久米の増田家一党を頼ったが、例えば日野の天然理心流増田蔵六らと同様、一丁事あるときは徳川家に強力する八王子千人同心と同様の心構えがあった。
時に、川村修富の時代は文化文政期の太平の時代であったが、オランダ風説書によればイギリス、フランス、ロシアの欧州列強の波が極東にも押寄せつつあり、国内には米に頼る幕藩体制の限界が露呈しつつあった。
川村修就と繁亭金太郎
もはや旧来の幕藩体制では立ち行かなくなった波に強権で抵抗したのが天保の改革の水野忠邦である。
川村修就は、後に勝海舟に幕末の幕臣の優秀な人物の一人と称されるが、水野忠邦に抜擢されながらもその失脚とは連座せずに幕府の要職を務めた。特に海防に熱心であった。
さて、水野忠邦の登場により、鳥居耀三が南町奉行に就任すると、歌舞伎の市川団十郎を始め奢侈禁令に触れた文政期の文化は停滞を余儀なくされる。草木奇品を扱った増田繁亭金太郎も闕所の罪により四谷大木戸門外に追放となったが、紀州徳川家によって有耶無耶の沙汰となった。この件、川村修就の周旋も考えられる。
つまり、何が起こるか、何をしておけばよいか、お見通しだったのである。
しかし、水野忠邦の失脚後も奢侈禁令は形を変えて継続して高札が掲げられたから、もはや予告されていた「草木奇品家雅見」の続編の刊行は成し遂げられなかった。
この後、増田繁亭金太郎は、草木奇品で得た莫大な資金を幕府の海防に用立てていく。
(2008.3.24)
参考文献 「幕末遠国奉行の日記」 小松重男著 1989年 中公新書 中央公論社
「旗本の経済学 ‐御庭番川村修富の手留帳‐」 小松重男著 1991年 新潮選書 新潮社
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