「草木奇品家雅見」とその著者増田金太(増田繁亭金太郎)somoku kihin kagami /masuda kinta (masuda hantei) 

文政10年(西暦1827年)江戸青山権田原の種樹家(植木屋)金太は「草木奇品家雅見」を著しました。これから、増田家7代目(金太から6代目)の私が金太の足跡とその周辺を探索します。 Copyright (C) 2007-2010 増田信敬 (masuda nobutaka)All rights reserved
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増田謹三郎と葵橋博士通り

(この章の更新日2008.7.21)
 

4代目増田謹三郎

 
   2代目増田金太(増田金太郎)が文久2年(1862年)にこの世を去った後、3代目増田金六が増田家を継ぎましたが、早くも慶応2年(1866年)にはその長男の増田謹三郎(きんざぶろう)に家督を譲り、楽隠居してしまいます。謹三郎は嘉永5年(1852年)生まれですから、僅か数え年15歳です。
 
   私には、幕末の動乱期の世に背を向けて、金太の残した鉢物に水をくれるて日柄過ごす3代目が想像されておかしくて堪りません。それとも何か企みごとがあったのでしょうか。
 
   3代目金六は、紀州徳川家に仕え金庫番を仰せ付かったと伝えられておりますが、何をしていたのでしょうか。幕末、御維新をどのように乗り越えたのかもわかりません。
 
玉川上水葵橋に移る

  

 戸籍上では、増田謹三郎は明治33年に四谷区四谷荒木町から千駄ヶ谷村の玉川上水葵橋に居を移しました。

 実際のところ、増田金太が「闕所の罪(けっしょのつみ)」により江戸四谷の大木戸門外に追放された後の居所も知れませんが、現在の鳩森八幡神社(千駄ヶ谷八幡宮)付近にあった紀州徳川家下屋敷に助けられ、老中水野忠邦による嵐のような天保の改革を切り抜けたようです。
 
 古地図を見ますと、玉川上水葵橋から千駄ヶ谷八幡の紀州徳川家下屋敷へと道が続いており、現在も新宿駅南口からJR東日本の本社前を通り、代々木駅の南端でJRのガートを潜る道が鳩森八幡神社へと続いていて、往時を偲ぶことができます。
 
謹三郎、葵橋を自費でもって恒久橋とする

 

   さて、玉川上水葵橋は、なぜ、「あおいばし」と名付けられたのでしょうか。

 

 ひとつには、明治初年に徳川慶喜の子孫の屋敷が現在のJR東京総合病院(鉄道病院)の敷地に建てられ、この徳川屋敷の入り口にあたるからとも、一説には、先の千駄ヶ谷の紀州徳川家下屋敷への甲州街道からの入り口にあたるからともされています。

  増田家では、先の紀州徳川家下屋敷への恩義を含めて後説としております。 

 

   なお、古地図には、橋が江戸時代から架かっていたことはわかりますが、橋の名前ありません。

 

  明治33年に四谷区四谷荒木町から千駄ヶ谷村の玉川上水葵橋に居を移した増田謹三郎は、この葵橋の往来の便を図るため、木橋を恒久橋に自費をもって架け替えました。石造かレンガかコンクリート橋かは伝えられておりませんが、往事としてはたいそうな出費であったでしょう。

 

 それだけ、まだ、増田金太の遺産があったのかも知れません。

 

 

   葵橋を流れる玉川上水は昭和の初期に暗渠となり、やがて玉川上水も役目を終えました。

 それでも、橋の欄干だけは平成10年ごろまで残っておりましたが、地下鉄大江戸線の工事が始まると何時しか撤去されました。

 現在は、葵橋跡の石碑、葵通りの名が残り、JRの線路側のビルの一角に東京都水道局による「葵橋の記」と記されたプレートがはめ込まれています。 

 
 
 

博士通り

 

   この新宿駅南口から徳川屋敷のあったJR東京総合病院へ続く道は、現在は渋谷区代々木に編入されましたが、当時は豊多摩郡千駄ヶ谷村(渋谷区千駄ヶ谷五丁目)で、明治の中期から大正、昭和の初期にかけて多くの文化人、墨客が暮らし、別名「博士通り(はかせどおり)」と呼ばれていました。

 

 増田謹三郎も、その貸家に何人かの文化人や文化人の卵を招いたようですが、その中に「幸徳秋水」、「菅野スガ」の名前があります。

 

   幸徳秋水、菅野スガ(菅野須賀子)は、明治43年(1910年)に「大逆事件」により逮捕され、翌年処刑されましたが、増田謹三郎は貸家を彼らの活動拠点として提供していました。処刑後は彼らの遺体の引き取りも行っています。

 

 増田謹三郎の思想信条はわかりませんが、増田金太、3代目増田金六が紀州徳川家とご縁があったため、明治政府に対してリベラルな感情はあったように思われます。

 推測に過ぎませんが、ご近所の徳川慶喜の子孫の住まいである徳川屋敷の方々ともご縁があり、御維新になんとも切ない感情があったのではないでしょうか。

 

 

 ところが、増田謹三郎のおかしみと切なさは、さらにあります。

 同時期の貸家に特高刑事を書生同然に住まわせていたことです。こともあろうに、後年の大正2年には、謹三郎の次女がこの特高刑事古田喜作と結婚しています。

 

 大正15年に妻に先立たれた謹三郎は、キリスト教に改宗してしまいます。

   その後、昭和の初期には牧師になるまでに信仰を厚くしていきますが、その結果、増田家は、増田金太の眠る菩提寺(現新宿区の浄土真宗本願寺派寺院)とは疎遠になってしまうのです。

 3代目増田金六の妻に菩提寺の娘さんを迎えていたのにもかかわらず。 

(修正2007.3.27/修正2007.3.10/修正2007.3.9/修正2007.3.5/作成2007.2.27)

 

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 昭憲皇太后の女官「かよ」おばさんの話.pdf(作成2008.7.21)

 

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