この新宿駅南口から徳川屋敷のあったJR東京総合病院へ続く道は、現在は渋谷区代々木に編入されましたが、当時は豊多摩郡千駄ヶ谷村(渋谷区千駄ヶ谷五丁目)で、明治の中期から大正、昭和の初期にかけて多くの文化人、墨客が暮らし、別名「博士通り(はかせどおり)」と呼ばれていました。
増田謹三郎も、その貸家に何人かの文化人や文化人の卵を招いたようですが、その中に「幸徳秋水」、「菅野スガ」の名前があります。
幸徳秋水、菅野スガ(菅野須賀子)は、明治43年(1910年)に「大逆事件」により逮捕され、翌年処刑されましたが、増田謹三郎は貸家を彼らの活動拠点として提供していました。処刑後は彼らの遺体の引き取りも行っています。
増田謹三郎の思想信条はわかりませんが、増田金太、3代目増田金六が紀州徳川家とご縁があったため、明治政府に対してリベラルな感情はあったように思われます。
推測に過ぎませんが、ご近所の徳川慶喜の子孫の住まいである徳川屋敷の方々ともご縁があり、御維新になんとも切ない感情があったのではないでしょうか。
ところが、増田謹三郎のおかしみと切なさは、さらにあります。
同時期の貸家に特高刑事を書生同然に住まわせていたことです。こともあろうに、後年の大正2年には、謹三郎の次女がこの特高刑事古田喜作と結婚しています。
大正15年に妻に先立たれた謹三郎は、キリスト教に改宗してしまいます。
その後、昭和の初期には牧師になるまでに信仰を厚くしていきますが、その結果、増田家は、増田金太の眠る菩提寺(現新宿区の浄土真宗本願寺派寺院)とは疎遠になってしまうのです。
3代目増田金六の妻に菩提寺の娘さんを迎えていたのにもかかわらず。
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