「草木奇品家雅見」とその著者増田金太(増田繁亭金太郎)somoku kihin kagami /masuda kinta (masuda hantei) 

文政10年(西暦1827年)江戸青山権田原の種樹家(植木屋)金太は「草木奇品家雅見」を著しました。これから、増田家7代目(金太から6代目)の私が金太の足跡とその周辺を探索します。 Copyright (C) 2007-2010 増田信敬 (masuda nobutaka)All rights reserved
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【ラベンダー】(2009(平成21)年12月14日)
 
 10月25日の富良野駅で「ラベンダー咲いていますか」と尋ねた観光客がいたのには吃驚したが、師走の14日に我が家のラベンダーが咲いたのには恐れ入った。
 11月上旬から花芽が一本伸びてきて、下旬には花の蕾がはっきりとしていたが、多分寒さで萎れると思って見ていた。
 
 試しに母親が花鋏を入れて、一輪挿しで家の中で暖めたら、昨日、大江戸博物館の「いけばな-歴史を彩る日本の美-」展を見に行っている間に咲いていました。
 今、食卓の上で、父親が揃えたラベンダー柄の洋食器と共演している。
 
 夏に青空の下で、かんのファームで風に煽られて一斉に色を変える群落も美しいが、結構、花一輪もじっくり心を休ませてくれます。
  (2009.12.14 masuda nobutaka)
 
【北陸と能登の廃止】(2009(平成21)年12月13日)
 
 北陸新幹線の金沢開業までは残ってくれると思いましたが、平成22年の春のダイヤ改正で金沢行の寝台特急北陸と夜行急行能登号が廃止になるようです。
 毎年、師走になると夜行列車の廃止の報が入り、残念です。
 
 急行だいせん2号大社行から30年以上夜行列車にはお世話になりました。
 夜、寝ようとすると23時03分の上野発北陸号の発車時刻を時計が指していることがあります。
 
 たぶん、これからも23時03分は心に残ることでしょう。
 (2009.12.13 masuda nobutaka)
 
 
 
【鉄道と修学旅行ー鉄道ピクトリアル2009年11号に寄せて】(2009(平成21)年9月20日(日))
 
 横浜市立の小学校6年生の修学旅行は定番の日光であった。今から30年以上前の話である。
 小学校から大船駅まで貸切バスで出て、「ひので号」を待った。
 確かに「ひので号」であった筈であるが、鉄道ピクトリアル2009年11月号の山田亮氏の「修学旅行と鉄道ー参宮列車から「ひので」「きぼう」へー」を読んで記憶が揺れる。
 
 当時は修学旅行イコール「ひので号」があまりにも大きな存在であった。
 先頭車の車内のスピードメータの存在や155系の車体の配色、三人掛けシート、車端部のシートは簡易ベッドになるなど、同級生の村上君や長谷川君らと予習に怠りはなかった。
 
 ついでに、大船駅のホームで待つ間に島田始発の111系、平塚始発の80系が先に入ることも頭に入れた。そして電車はダイヤどおりに目の前を過ぎていった。
 
 ヘッドマークはなかった。
 国鉄が赤字に喘いでいたこの頃、鉄道少年の夢は見事に打ち砕だかれてしまう。
 「ひので号」のヘッドマークは見なかったのだから、この列車の名前は「ひので号」ではなかったのかも知れない。
 
 この点については、12月号の鉄道ピクトリアル誌上で山田亮氏が明らかにして頂けるであろう。
 
 
 兎に角、155系「ひので号」は小学生を乗せてラッシュ直後の東海道線を上って行く。
 東京駅からは旅客列車の走らなくなった山手線、京浜東北線の海側の複線を通って上野の高架ホームを通過した。
 当時の担任の先生の説明では「貨物線」を走ると聞かされたし、我々の知識も記憶も東京駅から上野駅間は東北本線の貨物線であった。
 
 大宮を過ぎると車窓からの家屋に隙間ができて、大きな川を渡り、そのうち「ひので号」は田圃の中を走っていた。
 
 
 車内はトランプ遊びに夢中であるが、同好者は東武鉄道の電車、古河駅付近の大カーブ、すれ違う「特急ひばり」やEF15の引く貨物列車、小山駅の水戸線の短絡線(上野発の急行が小山駅に入らずに水戸線に乗り入れる線路)、建設中の東北新幹線の高架橋等々を左右を同時に見ながら確認しなければならなかったから、結構大変であった。
 
 「ひので号」は宇都宮駅で進行方向を換え、日光杉並木を見ながら日光駅に入った。
 当時の小学生には、「日光」は「結構」な遠くであったのである。
 (2009.9.20 masuda nobutaka)
 
 
 
 
【木下孝則と葵橋博士通り.PDF(2008(平成20)年6月9日(月))
 
横浜美術館「木下孝則展」を訪れて
 
               木下孝則展パンフレット.PDF
 
 
 
【富士と歩道橋】(2007(平成19)年11月12日(月))
 今朝は相鉄線からよく富士が見えた。
 すでに六合目ぐらいまで雪がある。秋は訪れは遅かったが、冬はいつもの年より早いのではないか。
 6代目の父親がこの街を永住の地に選んだのは、富士が見えるからだったのかもしれない。
 
 父親は、「富士山は、いつ見ても美しくもあり、なつかしくもある。想いでのかたまりのような山である。」と書き残した。
 平成17年の11月に父親の最後のドライヴになったのも富士であった。河口湖と山中湖の紅葉はことのほか美しく、昔を懐かしみ、父親は満足していた。
 
 今、県道の歩道橋を撤去する音が夜のしじまに響く、ハンマーが鋼鉄を叩いている。
 歩道橋は、私が小学校に入学するときに架けられた。
 何よりも喜んだのは父親であった。交通戦争と呼ばれる時代を向かえた頃、自宅から小学校への通学路を父親は心配していた。
 それから40年近く、歩道橋は小学生の通学路としてどれくらいの子供を見てきただろうか。
 
 歩道橋からも富士がよく見えた。富士も小学生の通学を見守っていた。
 父親の愛情のような歩道橋は消える。
 やがて新しい街の風景が、どのような想いでを与えてくれるのか。
 
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