「草木奇品家雅見」とその著者増田金太(増田繁亭金太郎)somoku kihin kagami /masuda kinta (masuda hantei) 

文政10年(西暦1827年)江戸青山権田原の種樹家(植木屋)金太は「草木奇品家雅見」を著しました。これから、増田家7代目(金太から6代目)の私が金太の足跡とその周辺を探索します。 Copyright (C) 2007-2010 増田信敬 (masuda nobutaka)All rights reserved
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 (この章の更新日2010.1.24)
 
 
千駄ヶ谷902番地・千駄ヶ谷903番地
 
東京都渋谷区代々木2丁目-6番地付近は、この地が渋谷区に編入される以前は千駄ヶ谷902番地と同904番地、さらに道路の線路側は千駄ヶ谷903番地であった。
曾祖父の増田謹三郎(4代目増田金太郎)は、明治33年に旧美濃高須藩松平摂津守の上屋敷前の四谷区荒木町3番地からこの地に移り、玉川上水葵橋際に居を構えた。
 
葵橋の名前は、この地の玉川上水(甲州街道)から千駄ヶ谷鳩森八幡に至る一帯の旧紀州藩下屋敷や幕臣屋敷跡に、江戸城を明け渡した徳川宗家とその一族の徳川邸、徳川屋敷群が建ち並んだことによる。
 
千駄ヶ谷902番地の増田家の周囲は、明治後期から戦前かけて「葵橋博士通り」と呼ばれ、若き文人墨客や思想家が活動の拠点としていた。
この道は、現在の新宿駅南口西新宿1丁目交差点からJR東日本本社に至る通りである。
 
増田謹三郎は、千駄ヶ谷902番地と同903番地の借家に、明治後年には千駄ヶ谷時代の平民社の幸徳秋水、菅野すが(菅野須賀子)等、その後、大正期には「国民道徳論」の深作安文、二・二六事件で理論的首謀者とされて刑死した北一輝、その後は洋画家の木下孝則等を住まわせていた。
 
叔父は、昭和39年から同地でコーヒー喫茶「ダフネ」を祖母の建てたビルの一階で営んでいた。
(更新2010.1.24、作成2010.1.23)
 
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新宿歴史博物館の草木奇品家雅見         
 
新宿区三栄町にある新宿歴史博物館の常設展示室隣のホール壁面に、繁亭金太の「草木奇品家雅見」の一部がエッチングで大きく複製展示されている。
 
三栄町のお隣りは荒木町で、増田の家は明治維新の前後に千駄ヶ谷の紀州藩下屋敷(現在の東京体育館)からこの荒木町に移っている。
荒木町は、幕臣の居住地と町屋が混在していたところで、甲州街道に面した四谷伝馬町とともに江戸後期には大名屋敷に出入りする植木屋の多い土地であった。
 
転居した荒木町3番地は、維新前は美濃高須藩松平摂津守の上屋敷前で、維新後、摂津守の屋敷は庭園として開放され、東京市民で賑わった。
転居先は、この庭園の正門前であるから、増田の家も植木屋か茶屋を兼業していたようにも考えられるが、伝わっていない。
なお、会津藩主松平容保と京都所司代桑名藩主松平定敬は、この尾張徳川家の支藩である美濃高須藩から養子に入っているので、この上屋敷で育っている。
 
 
千駄ヶ谷や四谷の植木屋の多くは明治維新後の大名屋敷の消滅により姿を消したが、その後、出版業を営む者が勃興した。
曾祖父の増田謹三郎は、明治初年に四谷伝馬町(正しくは、忍町)に「増田代用小学校(代用増田小学校)」を開設したが、そんな環境も影響したのであろう。
「増田代用小学校」は、明治40年代の代用小学校廃止まで存続した。
当時は、現在の公立小学校が制度的に行き渡らず、私塾や寺子屋の延長線にある私学校が玉石混淆した時代である。
 
この時代、東京府知事であった元幕臣の大久保一翁は、月謝が高く、設立資金に無理やり庶民に寄付を求めた公立小学校設立の文部省令を棚上げし、東京市内の代用小学校の設立と育成を擁護した。
この施策により、裕福な者は公立小学校へ、代用小学校では貧富の差なく必要にして十分な教育が受けられたという。
 
この徳川幕府の最後の幕臣大久保一翁は、微禄であった勝海舟の幕臣への登用を図ったことで知られているが、増田家には「御庭番としてこれを周旋した。」との伝承がある。
もちろん増田金太郎は、百姓、町人であるから幕府の職制としての「御庭番」ではないが、植木屋として、奇樹奇草を扱う文化人として大名諸家、幕臣等と身分を越えた交わりがあったので、豊富な蓄財とともに自由に動けたということであろう。
 
話しは三栄町に戻る。 
祖父の増田誠は、大正15年に同人誌の「恒星」に詩を寄せている。
出版社は、恒星社であった。同社は、恒星社厚生閣となって三栄町で盛業中である。
(更新2010.1.2、作成2009.12.6)
 
参考文献    「地図で見る新宿区の移り変わり-四谷編-」 東京都新宿区教育委員会(中央図書館郷土資料室) 昭和58年 人文社
         「勝海舟を動かした男 大久保一翁」 古川愛哲著 平成20年 (株)グラフ社 
       
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神宮外苑のなんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)の木

 
神宮外苑聖徳絵画館前のなんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)の木は、5月初旬に雪を吹いたような白い花を咲かせる。
この木は元々青山六道辻(現在の神宮外苑テニスコート付近)にあり、初代は枯死したが根分けされ、現在地に移植された二代目である。
六道辻にあった頃は「六道木」とも呼ばれた。
 
六道辻の地は、繁亭金太が青山権田原の地を幕府に召し上げられたのち移り住んだ地である。
この地には、紀州藩医の坂本浩然が住んでいて繁亭金太と坂本浩然は親交があった。
 
湯浅浩史氏は、初代の「なんじゃもんじゃの木」は、尾張の本草学者伊藤圭介が木曽で採取し、繁亭金太を経由して坂本浩然に譲ったのではないかと推定されている。
なお、枯死した初代の「なんじゃもんじゃの木」の切り株は、神宮外苑絵画館の内部に展示されている。
 
一方、「ヒトツバタゴ」の名を付けたのは、それ以前に尾張の本草学者水谷豊文であり、また、幕府医の栗本鋤雲(後の外国奉行、函館奉行)は「フタバノキ」と名を付けている。
 
いずれも本草学者と植木屋が絡んでいる。
このころの植木屋は、採取、育成、販売を通じて本草学者と関わりがあり、植木屋がもたらす奇樹奇草から本草学者はその種の同定を試み、有用な薬草として医師が使用した。
 
 
伊藤圭介、水谷豊文(助六)は、宇田川榕菴と共にシーボルトに信頼が厚かった本草学者であり、シーボルトがシーボルト事件の際に本国に持ち帰った繁亭金太の「草木奇品家雅見」もこれら三人の誰からか贈られたと考えられる。
 
ちなみに、国立国会図書館では伊藤文庫と白井文庫に「草木奇品家雅見」は収蔵されている。
「伊藤文庫」は、伊藤圭介収集書籍を孫の伊藤篤太郎が蔵していた和漢書、「白井文庫」は、植物学者の白井光太郎が収集した本草学関係資料である。
 
水谷豊文は、天保4年に死去しているが、天保6年の三回忌に、信濃町の浄土宗一行院で追善本草会が営まれている。
追善本草会は、伊藤圭介らによって本草のみならず、明治以後の博物学の様相を呈していた。
 
この一行院、繁亭金太の菩提寺浄土真宗林光寺に近く、私の母方の祖父丸地弁信(故 浄土宗宝心寺住職、大本山光明寺執事長)が修行した寺でもある。
震災にも戦災にも耐えて残ったが、惜しくも首都高4号線の外苑下り出口に大きく浸食され昔日の面影はない。
(更新2009.12.29、 作成2009.12.5)
 
参考文献    「植物ごよみ」 湯浅浩史著 2004年 朝日選書 朝日新聞社
         「江戸の植物学」 大場秀章著 1997年 東京大学出版会              
 
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