「草木奇品家雅見」とその著者増田金太(増田繁亭金太郎)somoku kihin kagami /masuda kinta (masuda hantei) 

文政10年(西暦1827年)江戸青山権田原の種樹家(植木屋)金太は「草木奇品家雅見」を著しました。これから、増田家7代目(金太から6代目)の私が金太の足跡とその周辺を探索します。 Copyright (C) 2007-2010 増田信敬 (masuda nobutaka)All rights reserved
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余部鉄橋はるか
(この節の更新日2007.4.19)
 
夜汽車で渡った鉄橋
 
 昭和49年8月21日未明、前夜大阪駅を発車した福知山線・山陰本線経由で出雲大社の最寄り駅であった「大社駅」行き急行「だいせん2号」は、ひんやりとしたトンネルを抜けると突如轟音とともに空中に躍り出た。はるか下に、か細い集落の明かりが瞬き、小学生だった私は向かい合った前の座席で寝ていた父の膝を思わず突っついた。これが余部鉄橋との最初の出会いであった。
 
 初めての夜行、お盆の帰省ラッシュもまだ続き、混雑で父の仕事上の知り合いの交通公社に頼んでも入手できない寝台券。寝台車から定員の多い座席車に変更された雑多な車両を連結した急行列車。冷房のない硬い座席の指定席。床に寝る指定席が入手できなかった人々、何もかもが初めての経験だった。
 
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                                                          2007.4.14(土)撮影
 
山陰本線白眉の鉄橋
 
 余部鉄橋は鳥取県との県境に近い兵庫県香美町(旧香住町)の日本海に面した余部(あまるべ)集落にある。
 山陰本線開通当時から同線の鉄道風景の白眉と謳われ、高さ41.45mからの日本海の夏の碧さ、冬の厳しさは、乗客の目に焼きついてきた。
 
 その完成は古く、明治45年(1912年)という。以来、鉄橋であるがゆえに塩害に悩まされつつ、約100年風雪に起立してきた。
 しかし、昭和61年12月に発生した列車転落事故以後、冬場の強風による列車の運休に通学等の足が阻害され続けられたため、この4月から同位置に平成23年完成予定で鉄筋コンクリート橋に架け替えられることとなった。
 
  
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                                                2007.4.14(土)撮影
 
特急出雲3号で渡った鉄橋
 
  昨年の3月まで、東京発の山陰線経由の寝台特急「出雲」号という列車があった。
 もと「出雲3号」と名乗っていた時代、この列車にはよく乗った。横浜市の西端に住む私にとって、金曜日の仕事から自宅に戻ってから乗車できる都合のよい時間帯に横浜駅を発車する列車だった。
 この列車は翌朝の7時過ぎに香住駅で駅弁の車内販売員が乗り込み、カニ飯か幕の内弁当を購入し落ち着くと「余部(あまるべ)鉄橋」を渡るのであった。
 
 
本線とは名ばかりな山陰本線
 
 今日、東京から鳥取に向かわれる方は航空機を利用されると思う。
 大阪からは、中国自動車道で車で行く方が多いのではないだろうか。
 鉄道では、京都、大阪から山陽線経由で、岡山手前の上郡(かみごおり)駅から乗り換えなしで特急が2時間半あまりで結んでいる。この智頭急行線という鉄道 が開通する10年前までは、鳥取まで4時間を要していた。
 
 そんな事情もあり、また、先の冬場の強風による列車の運休もあり、一時は兵庫、鳥取県境で廃止が噂さされるほど本線とは名ばかりな山陰本線となってしまった。
 日中、余部鉄橋を通るのは、1本の特急を除けば僅かな乗客を乗せた普通列車だけである。
 
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                                                                                                      2007.4.14(土)撮影
 
建設を急いだ余部鉄橋
 
 余部鉄橋の香住駅よりは急峻な地形が多く、明治時代の技術力では鉄道の敷設に困難を極めたという。
 結果、この橋梁建設が山陰本線開通の足かせとなった。
 海岸至近で塩害を免れ得ないのを承知で、建設期間の短い現在の姿の鉄骨橋梁が選ばれたという。着工から2年で開通に漕ぎ着けたというから驚きである。鉄骨資材は浜に沖合いの大型船から艀(はしけ)で引き揚げられたのだそうだ。
 
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                                                                                                                              2007.4.14(土)撮影
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2007.4.19修正/2007.4.18作成